小美玉市 県指定・市指定文化財一覧
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茨城県指定文化財
| No. | 名称 | 種類 | 所在地 | 数量 | 所有者 (保持団体) |
指定年月日 |
| 1 | 絹本着色阿弥陀如来画像 | 絵画 | 与沢 | 1幅 | 個人 | 昭和44年3月20日 |
| 2 | 絹本着色善導大師画像 | 絵画 | 与沢 | 1幅 | 個人 | 昭和44年3月20日 |
| 3 | 絹本着色聖徳太子勝鬘経御講讃図 | 絵画 | 与沢 | 1幅 | 個人 | 昭和44年3月20日 |
| 4 | 神号天照皇太神 | 書跡 | 羽鳥 | 1幅 | 個人 | 昭和42年11月24日 |
| 5 | 木造阿弥陀如来坐像 | 彫刻 | 上玉里 | 1体 | 円妙寺 | 昭和52年5月2日 |
| 6 | 鰐口 | 工芸品 | 上玉里 | 1口 | 大宮神社 |
昭和52年5月2日 |
| 7 | 旧小松家住宅 | 建造物 | 下玉里 | 1棟 | 小美玉市 | 令和元年12月26日 |
有形文化財
1絹本着色阿弥陀如来画像(与沢)
【制作時代】室町時代【寸法】80cm×36cm
阿弥陀如来を描いた画像で、中央から48本の光芒を放ち、来迎印を結んでいます。光芒を光背としますが、この間に12の化仏を配しているのが特徴です。親鸞聖人ゆかりの喜八阿弥陀堂に伝わっています。

2絹本着色善導大師画像(与沢)
【制作時代】室町時代【寸法】94cm×33cm
中国唐代の浄土教五祖の一人である善導大師は、念仏を唱えるたびに口から光を放ったとされています。画像は、大師が左半身を見せ、合掌しながら念仏を唱える姿を描いています。親鸞聖人ゆかりの喜八阿弥陀堂に伝わっています。

3絹本着色聖徳太子勝鬘経御講讃図(与沢)
【制作時代】室町時代【寸法】80cm×36cm
聖徳太子が勝鬘経の教えを講義している姿を描いたものです。太子は、赤い装束に袈裟を掛け冠をつけ、麈尾という仏具をもって椅子に座っています。また、下方に僧侶の聴聞衆を配しています。親鸞聖人ゆかりの喜八阿弥陀堂に伝わっています。

4神号天照皇太神(羽鳥)
第107代後陽成天皇の宸筆は類例が少なく、伊勢徴古館蔵、京都法金剛院蔵の「竜虎」、「梅竹」とともに代表的な作品の一つです。

5木造阿弥陀如来坐像(円妙寺 上玉里)
【制作年代】平安時代末~鎌倉時代初期
ヒノキ材の寄木造。漆箔、彫眼、螺髪は掘り出しています。木製の肉髻珠と水晶珠の白毫は嵌められ、衲衣を着けています。仏師定朝の作風の流れを組むとされており、円妙寺常行堂に安置されています。

6鰐口(大宮神社 ・上玉里)
【制作年代】正嘉元年(1257)【寸法】最大径27.7cm、最大厚14.2cm
寺社仏閣の軒先に吊るし、紐を打ち付けて鳴らす青銅製の仏具。鼓面の盛り上がりが強く、口唇の出も小さい古い様式です。両面とも2本1組の界圏で内、中、外の三区に分け、外区の銘帯には「正嘉元年(1257)大才丁巳十二月八日敬白」の銘があります。銘のあるものでは県内最古のもの。

7旧小松家住宅(上玉里)
【建築時期】18世紀後半【規模】建築面積:41.58坪
平成8年に上玉里にあった小松家の主屋を小美玉市民家園として現在地に移築復元しています。茨城県内に広く分布した「曲屋」ですが、東側の馬屋やがもう一つの曲がりを構成する「二つ曲がり」の形態をもつ庄屋格の古民家です。

小美玉市指定文化財
有形文化財
| No. | 名称 | 種類 | 所在地 | 数量 | 所有者(保持団体) | 指定年月日 |
| 1 | 駒形神社本殿 | 建造物 | 中延 | 1棟 | 駒形神社氏子会 | 昭和51年12月1日 |
| 2 | 貴船神社本殿 | 建造物 | 上吉影 | 1棟 | 貴船神社氏子会 | 昭和51年12月1日 |
| 3 | 鳳林院山門 | 建造物 | 竹原中郷 | 1棟 | 鳳林院 | 昭和57年3月24日 |
| 4 | 鹿島神社本殿 | 建造物 | 上馬場 | 1棟 |
上馬場区 竹原中郷区 |
昭和61年7月17日 |
| 5 | 山中薬師堂本堂 | 建造物 | 西郷地 | 1棟 | 西郷地区 | 昭和61年7月17日 |
| 6 | 照光寺山門 | 建造物 | 上玉里 | 1棟 | 照光寺 | 平成14年6月6日 |
| 7 | 阿弥陀如来画像 | 絵画 | 山野 | 1幅 | 山野区 | 昭和53年5月6日 |
| 8 | 不動明王及び二童子画像 | 絵画 | 柴高 | 1幅 | 個人 | 昭和45年6月26日 |
| 9 | 釈迦如来涅槃曼荼羅 | 絵画 | 竹原 | 1幅 | 個人 | 昭和54年8月27日 |
| 10 |
石造地蔵菩薩立像(日限地蔵) |
彫刻 | 下馬場 | 1軀 | 下馬場区 | 昭和51年12月1日 |
| 11 |
木造地蔵菩薩立像(赤身地蔵) |
彫刻 | 小川 | 1軀 |
赤身山延命地蔵 管理委員会 |
昭和51年12月1日 |
| 12 | 木造十一面観世音菩薩立像 | 彫刻 | 飯前 | 1軀 | 飯前区 | 昭和51年12月1日 |
| 13 | 木造虚空蔵菩薩坐像 | 彫刻 | 下吉影 | 1軀 | 個人 | 昭和51年12月1日 |
| 14 | 木造天妃尊椅像及び四童子立像 | 彫刻 | 小川 | 5軀 |
天聖寺斎場及共同 墓地管理組合 |
昭和53年5月6日 |
| 15 | 木造阿弥陀如来坐像 | 彫刻 | 竹原中郷 | 1軀 | 永福寺 | 昭和44年4月24日 |
| 16 | 木造阿弥陀如来坐像 | 彫刻 | 中野谷 | 1軀 | 中野谷区 | 昭和44年4月24日 |
| 17 | 木造山中薬師仁王像 | 彫刻 | 西郷地 | 2軀 | 西郷地区 | 昭和61年7月17日 |
| 18 | 石造安楽寺仁王像 | 彫刻 | 栗又四ケ | 2軀 | 極楽寺 | 昭和50年9月5日 |
| 19 | 木造薬師如来坐像 | 彫刻 | 栗又四ケ | 1軀 | 極楽寺 | 昭和51年3月1日 |
| 20 | 木造観音菩薩立像 | 彫刻 | 下吉影 | 1軀 | 修善院 | 平成21年7月1日 |
| 21 | 白磁製子安観音像 | 工芸品 | 中台 | 1軀 | 中台区 | 昭和45年6月26日 |
| 22 | 紺糸縅二枚胴具足 | 工芸品 | 中台 | 1領 | 個人 | 昭和45年6月26日 |
| 23 | 竹原神社神輿 | 工芸品 | 竹原 | 1基 | 竹原区 | 昭和61年7月17日 |
| 24 | 銅鐘 | 工芸品 | 上玉里 | 1口 | 円妙寺 | 昭和50年9月5日 |
| 25 | 烈公書神名記 | 書跡 | 小川 | 2幅 | 小美玉市 | 昭和51年12月1日 |
| 26 | 紙本墨書六字名号伝親鸞聖人の書 | 書跡 | 竹原 | 1帖 | 個人 | 昭和55年3月26日 |
| 27 | 三十六歌仙色紙 | 書跡 | 高崎 | 36点 | 個人 | 昭和50年9月5日 |
| 28 | 傘連判状 | 古文書 | 花野井 | 1点 | 個人 | 平成16年12月20日 |
| 29 | 紙本墨書修善院由来之事 | 古文書 | 下吉影 | 1巻 | 修善院 | 平成21年7月1日 |
| 30 | 雷電山経塚出土の経塚遺物 | 考古資料 | 高崎 | 3点 | 照光寺・小美玉市 | 平成11年12月2日 |
| 31 | 灰釉陶器短頸壷・蓋 | 考古資料 | 茨城県立歴史館 | 2点 | 極楽寺 | 昭和51年3月1日 |
| 32 | 朝倉家医学書及び薬草標本 | 歴史資料 | 中延 | 一括 | 個人 | 昭和51年12月1日 |
| 33 | 板碑 | 歴史資料 | 小岩戸 | 1基 | 個人 | 昭和59年7月18日 |
| 34 | 歴史資料 | 下玉里 | 389点 | 個人 | 平成23年3月1日 |
民俗文化財
|
No. |
名称 |
種類 |
所在地 |
数量 |
所有者(保持団体) |
指定年月日 |
|
35 |
有形民俗 |
小川 |
一括 |
個人 |
昭和51年12月1日 |
|
| 36 | 神輿 | 有形民俗 | 小川 |
1 |
素鵞神社 | 令和8年6月1日 |
| 37 | 有形民俗 | 小川 | 素鵞神社 | 令和8年6月1日 | ||
|
38 |
無形民俗 |
下馬場 |
|
下馬場ばやし保存会 |
昭和51年12月1日 |
|
|
39 |
無形民俗 |
立延 |
|
立延子供会 |
昭和51年12月1日 |
|
|
40 |
無形民俗 |
立延 |
|
立延子供会 |
昭和51年12月1日 |
|
|
41 |
無形民俗 |
堅倉 |
|
堅倉ばやし保存会 |
昭和57年3月24日 |
|
|
42 |
無形民俗 |
羽鳥 |
|
羽鳥囃子保存会 |
平成16年7月23日 |
|
| 43 | 素鵞神社祇園祭 | 無形民俗 | 小川 | 素鵞神社 | 平成27年3月18日 |
記念物
| No. | 名称 | 種類 | 所在地 | 数量 | 所有者(保持団体) | 指定年月日 |
| 44 | 南坪貝塚 | 史跡 | 与沢 | 個人 | 昭和51年12月1日 | |
| 45 | 野中貝塚 | 史跡 | 小川 | 個人 | 昭和51年12月1日 | |
| 46 | 地蔵塚古墳 | 史跡 | 下馬場 | 下馬場区 | 昭和51年12月1日 | |
| 47 | 与沢経塚 | 史跡 | 与沢 | 個人 | 昭和51年12月1日 | |
| 48 | 天聖寺歴代和尚の墓 | 史跡 | 小川 |
天聖寺斎場及 共同墓地管理組合 |
昭和51年12月1日 | |
| 49 | 本間玄琢一族の墓 | 史跡 | 小川 | 個人 | 昭和51年12月1日 | |
| 50 | 羽黒古墳群 | 史跡 | 竹原 | 竹原区 | 昭和44年4月24日 | |
| 51 | 愛宕山古墳群 | 史跡 | 花野井 | 個人 | 昭和44年4月24日 | |
| 52 | 泥障塚古墳群 | 史跡 | 納場 | 個人 | 昭和51年3月25日 | |
| 53 | 勅使塚古墳 | 史跡 | 張星 | 個人 | 昭和51年3月25日 | |
| 54 | 稲荷山古墳 | 史跡 | 柴高 | 個人 | 昭和59年7月18日 | |
| 55 | 竹原城跡 | 史跡 | 竹原 | 個人 | 昭和55年3月26日 | |
| 56 | 中台の一里塚 | 史跡 | 中台 | 個人 | 昭和55年3月26日 | |
| 57 | 竹原中郷経塚 | 史跡 | 竹原中郷 | 鳳林院 | 昭和55年3月26日 | |
| 58 | 栗原掃部衛門碑 | 史跡 | 中台 | 1基 | 中台区 | 昭和44年4月24日 |
| 59 | ケヤキ | 天然記念物 | 下馬場 | 1株 | 鹿嶋神社 | 昭和51年12月1日 |
| 60 | ヒサカキ | 天然記念物 | 川戸 | 1株 | 個人 | 昭和51年12月1日 |
| 61 | コノテカシワ | 天然記念物 | 倉数 | 1株 | 個人 | 昭和51年12月1日 |
| 62 | 大杉 | 天然記念物 | 下馬場 | 1株 | 鹿島神社 | 平成6年4月19日 |
| 63 | ウバユリ群生地 | 天然記念物 | 寺崎 | 個人 | 平成3年8月27日 | |
| 64 | 大宮神社樹叢 | 天然記念物 | 上玉里 | 大宮神社 | 昭和51年3月1日 | |
| 65 | 愛宕神社樹叢 | 天然記念物 | 下玉里 | 愛宕神社 | 昭和51年3月23日 | |
| 66 | 素鵞神社のケヤキ | 天然記念物 | 小川 | 1株 | 素鵞神社 | 平成27年3月18日 |
| 67 | 素鵞神社のケンポナシ | 天然記念物 | 小川 | 1株 | 素鵞神社 | 平成27年3月18日 |
有形文化財
1 駒形神社本殿(中延)
【建立】元禄16年(1703)
中根区の鎮守。年代は不詳ですが、陸奥国駒ヶ岳の駒形神の分霊を迎えて創建したと伝わっています。
本殿は一間社流造。別当覚成院住僧光寛による棟札には、再建に尽力した旗本(三浦氏、駒井氏、加藤氏、曽根氏)、各名主および氏子54名の名が記されており、府中村(現石岡市)の大工棟梁が関わっていることが分かります。

2 貴船神社本殿(上吉影)
【建立】江戸時代末
一間社流造。側面および後面には庇が付き、屋根は銅板葺となっている。側壁にある龍の彫刻は、江戸時代後期~明治時代前期に活躍した後藤縫之助の手によるもの。縫之助は、成田山新勝寺本堂や笠間稲荷神社本殿の彫刻も手掛けています。
大永6年(1526)の棟札には、立開城主 井坂修理助が大旦那として奉納したことが記されています。

3 鳳林院山門(竹原中郷)
【建立】正徳5年(1715)
総檀中の発願により、2年の歳月を費やし完成しました。大正6年(1917)10月1日の台風により倒壊しましたが、その年のうちに以前よりも本堂よりの現在の場所に復元されました。屋根は、昭和50年に鉄板葺、平成20年には銅板葺に改修されています。棟木に記された墨書によると、成田山新勝寺三重塔を手掛けた羽黒村( 桜川市)の大工棟梁、櫻井瀬兵衛政信が造営したことが分かります。

4鹿島神社本殿(上馬場)
【建立】慶安2年(1649)改修
彫刻や建築様式から鎌倉期の建立とされていますが、幾度にわたる修復が加えられています。棟札によると、特に江戸時代中期に大規模な修復したとされています。
一間社流造。彫刻の一部に彩色を施し、屋根は茅葺でしたが、現在は鉄板葺となっています。江戸時代の鹿島神社は、馬場村など周辺の9ヶ村の郷社でした。
慶安元年(1648) 、3代将軍徳川家光が発給した朱印状には、馬場村に三石が安堵されたことが記されています。以後、5代綱吉、8代吉宗、9代家重、10代家重、11代家斉、12代家慶、13代家定、14代家茂の朱印状が残されています。

5 山中薬師堂本堂(西郷地)
【建立】不明(江戸時代カ)
山中山広諦寺は、天台宗法円寺(茨城町)の末寺で、本堂、仁王門、薬師堂を有する寺院でしたが、明治2 年(1869) に無住のため、廃寺となりました。明治時代末の火災で焼失を免れた薬師堂は方形造であり、屋根は茅葺の寄棟造でしたが、昭和23年に瓦葺に改修しています。身舎は丸柱、内部は格天井となっています。

6 照光寺山門(上玉里)
【建立】寛文2年(1662)
薬医門形式の山門。屋根の柱の面取りが大きく、化粧垂木の先端部に反り増しの技法がみられます。平成9年の解体修理工事の際に発見された墨書きによると、府中町(石岡市)の大工竹澤茂太夫の手によって建てられたことが分かります。

7 阿弥陀如来画像(山野)
【製作年代】 室町時代【寸法】94×38cm
紺地に茶色の法衣をまとい、截金による麻の葉模様をあしらっています。伝承では、親鸞聖人が鹿島神宮に向かう途中、山野にてにわか雨に遭い、雨宿りをしながら、自身の衣の袖に描いて授けたとされています。山野では疫病除けの仏として崇められています。

8 不動明王及び二童子画像
【制作年代】 室町時代カ
紙本に黒摺ずりを施し、その上に着衣および文様などを彩色した画像。盤石に立ち、二童子は腰を低めて明王に向かって立っている像容となっています。

9 釈迦如来涅槃曼荼羅(永福寺・竹原中郷)
【制作年代】 元禄9年(1696) 【寸法】 276.7cm×168.0cm
釈迦入滅の情景を表した涅槃図。縦に5枚つなぎ合わせた麻地に金糸で刺繍されています。上部に開基の心海法印から歴代住職名や檀信徒の戒名150名、下部には願主である永福寺22世尭雄法印が記されています。

10 石造地蔵菩薩立像(日限地蔵尊・下馬場)
【制作年代】明暦4年(1658)【像高】 120cm
地蔵塚古墳に鎮座する地蔵尊は、希望する日時に願い事を叶えるとされています。出産にご利益があり、女性の信者が多く、旧暦24日が縁日となっています。背面には「明暦四年(1658) 戊戌 六月二十四日、導師徳蔵寺第二十二代豎者法印賢慶」と刻してあります。

11 木造地蔵菩薩立像(赤身地蔵尊・小川)
【制作年代】室町時代前半【像高】43.8cm
一木造。当初は彩色されていましたが、剥落して素地を表しており、台座、光背、持物は近年の補作と思われます。宝徳2年(1450)、小河城主であった園部氏は、城外に安置されていた地蔵尊を城内に迎え入れました。城主の娘にあざができ、地蔵尊に願を掛けると、「あざが消え失せ、地蔵尊の全身が赤いあざに包まれた」との伝説があります。
天正年間の戦乱を耐え忍び、元禄14年( 1701) には、近在の馬場村徳蔵寺に預けられましたが、享保7年( 1722) に小川村に引き戻されました。平成8年には、その地を小川南中学校( 当時) の体育館用地に譲り、県道の向かいの現在地に移されました。

12 木造十一面観世音菩薩立像(飯前)
【制作年代】江戸時代【像高】48cm
寄木造。肉身部は金泥塗、当初は彩色されていましたが、剥落して素地を表しています。安置されている飯前観世音堂は、平安時代末、八田氏の一族である真家長門守の祈願所として勧請されたとされます。古来より、安産を祈る人々の信仰を集めています。

13 木造虚空蔵菩薩坐像(修繕院・下吉影)
【制作年代】 鎌倉時代初期【像高】 107cm
高野山真言宗泰永山修善院本堂に安置されています。寄木造で、その作風から、東大寺南大門金剛力士像を造った運慶、快慶らの流れをくむ「慶派」の仏師の作とされています。

14 木造天妃尊椅像及び四童子立像(旧天聖寺・小川)
【制作年代】江戸時代【像高】36cm
色彩豊かな寄木造。椅子に座り、両手で日月が描かれた軍配形の団扇を持っています。前面には4体の童子(脇侍)が控えていますが、いずれも手首から先を欠いています。
天妃とは、千年ほど前から中国の沿岸部で航海安全の守護神として信仰されており、一般的には媽祖と呼ばれています。江戸時代になると、船玉信仰とも結びつき、日本も各地に伝えられました。清の圧政から逃れ、海を渡った東皐心越禅師が持参した天妃像の話を徳川光圀公が伝え聞き、その分霊を3体つくらせ、そのうち一体を舟運の要衝の地であった小川の天聖寺に下賜したものとされています。

15 木造阿弥陀如来坐像(鳳林院・竹原中郷)
【制作年代】 室町時代前半【像高】 71cm
永福寺の本尊仏。寄木造、肉身部が金泥塗、衣部は漆箔で仕上げられ、定印を結び、蓮華台座に座しています。

16 木造阿弥陀如来坐像(中野谷)
【制作年代】 室町時代【像高】 40cm
熊野山神光院霊前寺の本尊仏でした。寄木造、肉身部は漆箔となっており、裏面には「施主中野谷村猒誉金西」の銘があります。面相は古様を示しますが、衲衣のひだの表現は形骸化して進んでいます。頭部は清涼寺式釈迦如来像の縄目状の意匠が採用されており、熊野信仰と真言律宗の影響を受けています。

17 木造山中薬師仁王像(西郷地)
【制作年代】 江戸時代末【像高】 阿形像183cm、吽形像190cm
明治時代末の火災で広諦寺仁王門は焼失しましたが、安置されていた仁王像は難を逃れ、焼失を免れた薬師堂に移されました。ヒノキ材の寄木造で頭部、胸部ともに扁平な造りです。

18 石造安楽寺仁王像(旧安楽寺・栗又四ケ)
【制作年代】 元禄5年(1692)【像高】 阿形像170cm、吽形像165cm
安楽寺阿弥陀堂跡にある仁王像は、極楽寺およびその信徒によって建立されました。石材である伊豆石の輸送は、高崎の河岸問屋、笹目八郎兵衛の寄進によるものです。

19 木造薬師如来坐像(極楽寺・栗又四ケ)
【制作年代】 嘉暦3年(1328)【像高】 93.5cm
極楽寺の本尊仏。杉材の一木造、木地古色仕上げ、彫眼です。肉髷珠と白毫は水晶にて後補されました。背板内側には、墨書にて制作年代などの銘文がありました。

20 木造観音菩薩立像(修善院・下吉影)
【制作年代】 鎌倉時代初期【像高】 107cm
修善院本堂に安置されています。寄木造で、その作風から、東大寺南大門金剛力士像を造った運慶、快慶らの流れをくむ「慶派」の仏師の作とされています。

21白磁製子安観音像(中台)
【制作年代】江戸時代
中国明代に伝来した白磁製のマリア観音像で秘仏とされてます。約300年前の宝永年間に信者によって授けられ、諸国の霊場を巡拝して竹原の地にたどり着きました。それ以降、竹原長福寺境内の子安観音堂に安置されていましたが、明治28年(1895)、中台の現在地に観音堂とともに移転されました。難産にご利益があるとされています。

22 紺糸縅二枚胴具足(中台)
【制作年代】江戸時代
鉄錆地六十二間筋兜は、早乙女家貞(初代)の作。紺糸威二枚胴、袖、籠手、佩楯、面頬を具足しています。
23 竹原神社神輿(竹原神社・竹原)
【制作年代】 明治時代中頃カ【寸法】高さ137cm、胴幅40cm、重量172.4kg
竹原神社のアワアワ祇園の際に裏町のみろく、上町のささら とともに町内を渡御しています。総欅造で、胴体部は欅の素地が活かされ、屋根は黒漆仕上げとなっています。石岡総社宮の神輿よりも小型ですが、同じ仕様と構造で制作されています。

24 銅鐘(円妙寺・上玉里)
【制作年代】 応永10年(1403)【寸法】 総高69cm、口径47cm
「当住心巴僧都勧進 長賢檀那家長為二親常州南郡田余青木山大堂円妙寺之金 住乗憲法印 為一指半銭合力人成仏 応永十年癸未十一月八日 賢範」の銘文が刻まれています。その後、銅鐘は奥州菊田郡大島村の熊野神社(いわき市)に移されましたが、嘉永3年(1850)、銘文が手掛かりとなり、円妙寺に戻されて現在に至ります。

25 烈公書神名記(小川資料館・小川)
【制作年代】天保4年(1833)【寸法】 91cm×26cm
稽医館の創設者、本間玄琢の子道偉は、水戸藩の郡奉行吉成信貞に依頼して、藩主徳川斉昭の書の下賜を願いでました。斉昭公は、「大穴牟遅神」、「少名毘古那神」の神名を絹地に揮毫して2幅の掛軸に表具して授けました。その書は、稽医館の定例研究集会の際に掲げられました。

26 紙本墨書六字名号伝親鸞聖人の書
六字名号とは、お念仏の「南無阿弥陀仏」のことで、右側に和歌、左側に「建暦元年(1211)十一月二十九日行年三十九歳信州諏和ノ郷ニテ善信之( 花押)」の銘記があります。

27 三十六歌仙色紙
【制作年代】天保5年(1834)
平安時代中頃の歌人藤原公任が撰んだ『三十六人撰』に基づき、三十六歌仙の和歌を色紙に描いたもの。
28 傘連判状
【作成年代】宝暦4年(1754)
代官所役人、羽生内蔵之助が旗本曾我氏の罷免を要求した事件の連判状です。傘のように円形に連なる署名捺印がされていることから、傘連判状と呼ばれています。これにより、翌年には内蔵之助は追放されます。

29 紙本墨書修善院由来之事(修善院・下吉影)
【作成年代】江戸時代前半
高野山真言宗泰永山修善院に伝わる創建以来の由来記は、讃岐国誕生院善通寺にあった本院を佐竹氏の重臣であった船尾氏が移奉したことから始まります。その後、何度かの移奉を繰り返し、16世紀末には、下吉影に移り10石の所領を得ました。
慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に転封した際には、船尾氏も同行しましたが、本院はこの地に残りました。水戸徳川家時代の寛永検地の際には、12石の所領が安堵されました。

30 雷電山経塚出土の経塚遺物(照光寺・上玉里)
【年代】鎌倉時代初期 【法量】高さ15.2cm、直径5.9cm
雷電山古墳の墳頂に築かれた経塚。経文を入れた金銅製経筒を渥美産の壺に納めて、常滑産陶器の大甕で蓋をして埋納しています。常陸平氏との関連性がある資料とされています。

31 灰釉陶器短頸壷・蓋(極楽寺・栗又四ケ)
【年代】10世紀中頃【法量】 壺:口径12.2cm、器高26.8cm蓋:口径14.1cm、器高3.9cm
短頸壺と蓋のセットは、火葬した遺骨を納めるために使われたため、「蔵骨器」と呼ばれています。これを埋納する火葬墓は、階層の高い人物や僧侶の墓と言われています。

32 朝倉家医学書及び薬草標本(小川)
【年代】江戸時代
小川村横町の郷医、朝倉友慶、真斉父子二代が使用した医学書や薬草標本。稽医館の運営にも関わり、種痘を実施する計画を近隣の村々に働きかけました。

33 板碑(小岩戸)
【年代】 貞和5年(1349) 【寸法】高さ86cm
秩父産の緑泥片岩で造った武蔵型板碑。蓮台に乗った梵字で阿弥陀如来を表現した「キリーク」と華瓶が刻まれています。周辺には多くの五輪塔や寶篋印塔があることから中世墓があった可能性があります。

34 鈴木家古文書等「水戸藩玉里御留川」関係資料(下玉里)
【年代】 江戸時代
寛永2年(1625)、水戸藩は、財源を確保するために霞ヶ浦高浜入りの水域を専用漁場に設定して、「玉里御留川」としました。御川守として管理を任された鈴木源太左衛門家には、御留川に関連した資料が数多く残されています。
御留川では、自由に漁業活動ができなくなり、初期は役人のもとで行う直営の「直網」、その後、高く入札したものに漁業権を認める「入札運上」に変わっていきます。

民俗文化財
35 藤井家の民具(小川)
【年代】 江戸時代~昭和初期
小川坂下の藤井家に伝わる民具で、江戸時代から昭和初期に至る様々な生活道具が揃っています。

36 神輿(素鵞神社・小川)
【制作年代】大正14年(1925)11月【制作者】雨ヶ谷八十吉(小川の大工棟梁)
素鵞神社の祇園祭に執行される神幸に用いられる神輿。大正15年5月4日に遷宮式を行いました。特徴としては、台輪の前後左右の四方に担ぎ棒の穴が開いており、これにより、横棒を使って神輿を左右に大きく振る素鵞神社の祇園祭独自の「御神輿揉み」を行うことができます。霞ヶ浦沿岸地域の神輿でも大型で形態や手法に優れています。

37 踊屋台(附属茶台駕籠・他装飾品)及び祭礼関係文書
【制作年代】大正14年(1925) 【制作者】雨ヶ谷八十吉(小川の大工棟梁)
踊屋台
前部分が舞台となる曳き屋台。7月に執行される素鵞神社祇園祭において、年番と呼ばれる当番町によって使用されています。霞ヶ浦北岸地域の多くの祭礼で巡行されていましたが、石岡型の山車や幌獅子が流行すると廃れてしまい、現在は素鵞神社祇園祭のみとなっています。
茶台駕籠
踊屋台の巡行に先導する曳山。かつては、水分補給のための道具が積まれ、江戸時代の錦絵などにも描かれていたが、現在では秩父の夜祭や川越まつりに残る程度になっています。
祭礼関係文書
祭礼に関した規約、踊屋台の寄贈者である伊能林兵衛などの名が記された家臺新調明細簿、その他、年番記録帳は年番の執行状況を各年番町が書き綴ったもので、大正13年から現在に至るものです。

38下馬場ばやし
8月の鹿嶋神社の祭礼に氏子の家内安全と五穀豊穣を祈念して奉納される芸能。江戸時代の終わり、江戸生まれの船頭の影響を受けながら下馬場村の有志により、独自のお囃子となりました。

39 立延の盆綱
立延地区に伝わる盆行事。子供たちが8月13日の迎え盆に藁でつくった龍に模した綱を引いて、共同墓地にて先祖の霊を乗せ、地区の家々を回って、ご先祖の霊を送り届ける習俗です。

40 立延の青屋祭
子供たちの年中行事。かつては旧暦6月21日、青竹で小さい祠を組み、茅で屋根を葺いて「青屋の仮殿」を組み、中に御幣へをお祀りし、最後には、仮殿をかつぎ、近くの園部川へ流していました。現在は、茅の茎で作った箸とお札を家々に配っています。一部には、配られた箸でうどんを食べる風習もあり、悪疫を防ぎ、長寿の願いが込められています。

41 堅倉ばやし
8月の金刀比羅神社の祭礼に奉納される芸能。山車の舞台で披露され、長太鼓、小太鼓、摺鉦、笛の演奏に合わせ、獅子舞、神馬(きつね)、四丁目(おかめ)、民場(ひょっとこ)からなり、山車の出発と帰着を告げる「さんぎり」というお囃子もあります。

42 羽鳥囃子
鹿島神社で太鼓や鐘を叩いて行われていた雨ごいが起源とされ、やがて面をつけた舞が加わった現在の形となりました。獅子、神馬(きつね)、四丁目(おかめ)、民場(ひょっとこ)で構成されています。

43 素鵞神社の祇園祭(小川)
旧暦6月1日、7日、11日、13日の4日間にわたったことから、「四度のまつり」とも称され、御仮屋や氏子の町内において一連の神事が執り行われています。當家祭と呼ばれる神事は、前年の御神籤式で当番日が決定した4つの町内(横町・大町・仲田宿町・旧上宿町)が受け持ち、御神饌として供された甘酒、オシトギ(水に浸した生米を擂鉢ですったもの)、オフカシ(うるち米を蒸かしたもの)が直会としても振舞われます。當家祭は、十一日當家祭(當家注連)、十七日當家祭(八町注連)、二十一日當家祭(お浜降り式)、二十三日當屋祭(稲田姫祭)があります。
園部川でのお浜降り式

記念物
44 南坪貝塚(与沢)
【時代】 縄文時代後期(約4,000~3,000年前)
霞ヶ浦北岸に所在する大規模貝塚。霞ヶ浦に流入する梶無川に面する標高約26mの台地上に所在し、直径約100mの範囲に馬蹄形に広がる地点貝塚が点在しています。貝層の厚さは30~50cm、堀之内式期に貝層が形成されました。貝層は、鹹水性のハマグリ、シオフキが主体を占め、その他、サルボウガイなど28種の貝殻が確認されています。3体の埋葬人骨、クロダイ、スズキなどの魚骨やシカ、イノシシなどの獣骨、石器(石皿、石鏃)、土偶、骨角器(ヤス、釣針)、貝輪、土器片錘も見つかっています。霞ヶ浦沿岸から2.5kmと内陸部に所在する後期の拠点的な集落の一つであると言えます。

45 野中貝塚(小川)
【時代】縄文時代前期後半(約5,500年前)
園部川流域の台地斜面部に形成された径5mほどの地点貝塚。花積下層式期に厚さ50cmの貝層が形成されました。鹹水性のハマグリ、マガキが主体を占め、マダイ、スズキなどの魚骨、シカ、イノシシなどの獣骨、鹿角製釣針も見つかっています。やや内陸部に立地しており、縄文海進時の海岸線を知ることのできる遺跡です。

46 地蔵塚古墳(下馬場)
【年代】 古墳時代後期(6世紀後半)
墳丘長約64mの帆立貝形古墳。墳頂部に日限地蔵尊が鎮座しており、埋葬施設はよく分かっていません。後円部南西側の中段と鞍部から円筒埴輪列が確認されています。4条5段の普通円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、形象埴輪では盾形埴輪と馬形埴輪が出土しています。

47 与沢経塚(親鸞聖人ゆかりの経塚)
二人の幼子を残して妻に先立たれた喜八は、毎晩、妻の霊が枕元に現れるので、鹿島に向かわれる親鸞聖人に相談し、浄土三部経を書いた小さい石を妻の墓に埋めました。それからと言うもの妻の霊は現れなくなり、幼子もすくすく成長したという伝説が残っています。

48 天聖寺歴代和尚の墓(小川)
【年代】享保16年(1731)~明治14年(1881)【寸法】蘭山和尚:高さ4.5m
寛保3年(1743)、天聖寺の開基である蘭山和尚は94歳の天寿を全うしましたが、蘭山の墓塔である宝篋印塔は、享保16年(1731)、生前に造られる「寿陵墓」として門人たちの手によって建立されました。蘭山の没後、15代にわたる歴代和尚の中で、2代慧眼、4代慧命、5代仙洲、6代龍淵、7代鳳洲、13代興雲、14代宝隣らがこの地に眠っています。

49 本間玄琢一族の墓(小川)
【年代】 江戸時代後期
本間家は17世紀後半から続く医者の家系。18世紀中頃に潮来から小川に転居しました。天聖寺の墓地には、道意、玄琢、玄有などの墓碑や芭蕉の句碑があります。なお、玄有の三子、玄調は、水戸藩医 原南陽に入門し、華岡青洲に麻酔や外科技術を学びました。蘭医シーボルトから種痘の技術を習得し、藩内で種痘の普及に貢献しています。さらには徳川斉昭公の侍医に登用され、弘道館医学館の教授も兼ねました。玄調の墓所は、水戸常磐共有墓地にあります。

50 羽黒古墳群(竹原)
【築造年代】 古墳時代前期(4世紀後半)
園部川中流域に位置する前方後円墳1基、円墳3基で構成される古墳群。主墳は、墳丘長67mの前方後円墳。前方部が細長く後円部に比べて高さが低い古い形態ですが、埋蔵施設はよく分かっていません。墳丘からは円形、三角形、方形透穴をもつ器台形円筒埴輪や壺形埴輪の破片が見つかっています。

51 愛宕山古墳群(花野井)
【築造年代】古墳時代中期カ(5世紀)
園部川支流の小曽納川左岸に位置する円墳5基で構成される古墳群。主墳である第1号墳は、径50m、高さ5mを測り、幅10mほどの周溝が明確に残存しています。かつて、円筒埴輪が出土したとされていますが、明確な年代は不明です。

52 泥障塚古墳群(納場)
【築造年代】 古墳時代後期(6世紀)
巴川右岸に位置する標高約26mの台地上に所在し、前方後円墳2基、円墳5基で構成される古墳群。古墳群最大の第1号墳は、墳丘長39.5mを測る前方後円墳であり、後円部墳頂部には埋葬施設の石棺材が散在しています。6世紀代に巴川流域上流域に所在した支配層の墳墓であると考えられます。

53 勅使塚古墳(張星)
【築造年代】 古墳時代後期カ(6世紀)
園部川支流、花野井川左岸に位置する標高28mの台地上に築造された単独墳。径30mの円墳で、埴輪が確認されています。

54 稲荷山古墳(柴高)
【築造年代】古墳時代後期(6世紀)
巴川右岸に位置する標高28mの台地上に築造された単独墳。径26.5mの円墳で、3条4段の普通円筒埴輪が確認されています。

55 竹原城跡(竹原)
【築造年代】 16世紀
永禄2年(1559)、府中城主大掾貞国が江戸氏の南進に備えるために築城し、弟の義国が城主となりました。園部川左岸に位置し、標高23mの台地上および低地に立地しています。台地の突端部に主郭(曲輪I)を配置し、北、東および西の三方を曲輪IIで囲む梯郭式の城郭。

56 中台の一里塚
【築造年代】 江戸時代初期
水戸街道は、江戸日本橋から水戸城下を結ぶ脇街道。江戸時代初期は滑川(石岡市)から中台を通り、片倉宿に向かっていました。次第に往来が増えると、東側の竹原に付け替えがあり、竹原宿が置かれました。街道沿いの両側には、道標として、1里(約4km)ごとに塚が造られ、榎などが植えられました。
市内で唯一現存する「中台の一里塚」は、県指定記念物の「石岡の一里塚」次の一里塚で、江戸から24里目になります。平成27年、初代の榎は倒木しましたが、近くの若木を塚の中央に移植しました。

57 竹原中郷経塚
【築造年代】 亨保14年(1729)
扁平な石に経典の一文字を書写し、それを大量に埋納する一字一石経塚。昭和54年(1979)、塚自体は失われていますが、農村公園の造成の際に地下1mから大量の一字一石経石や16枚の寛永通宝が出土しました。鳳林院17世の住職大空普闡と親近の僧、祥瑞が飢饉から地元民を救うための願いを込めて、大乗妙典と施餓鬼経を書写して納経したことを記念する供養塔が建立されています。

58 栗原掃部衛門碑(中台)
【年代】 永禄4年(1561)【寸法】92×78cm
筑波山麓で産出される通称「雲母片岩」に阿弥陀三尊来迎図が線刻にて描かれています。観音菩薩と勢至菩薩が両脇にひかえる三尊型式。両側にある銘文によると、栗原掃部衛門が父母の供養のために建立したことが分かります。栗原掃部衛門は、竹原城主、竹原義国の配下で、四天王の一人とされています。

59 ケヤキ(鹿嶋神社・下馬場)
【樹高】 約15m【目通周囲】 約9m【樹齢】 約500年
ニレ科ケヤキ属の落葉高木。令和3年に樹勢の回復を目的とした大枝の除去を行いましたが、参道側には大きく根が張っており、雄大な姿を見せてくれています。

60 ヒサカキ(川戸)
【樹齢】約500年
モッコク科ヒサカキ属の常緑小高木。サカキの代用として墓や仏壇へのお供えや玉串に利用されています。

61 コノテカシワ(倉数)
【樹高】約12m【目通周囲】約2.4m
ヒノキ科コノテガシワ属の常緑針葉樹。葉や果実が薬用および線香の原料として利用されました。和名の由来は、樹形が「子供の手のひら」に似ているところからきています。

62 大杉(鹿嶋神社・下馬場)
【樹高】 約40m【目通周囲】 約5.4m【樹齢】 約800年
旧郷社である鹿嶋神社の神木として、氏子たちの手によって大切に守られています。

63 ウバユリ群生地(寺崎)
ユリ科ウバユリ属の多年草。関東以西に分布しますが、群生しているのは、珍しいです。

64 大宮神社樹叢(栗又四ケ)
境内に広がる鎮守の杜。針葉樹、照葉樹、落葉広葉樹で構成され、参道や手水舎付近に美林を形成しています。

65 愛宕神社樹叢(下玉里)
帆立貝形古墳である愛宕塚古墳の墳丘に広がる樹叢。墳頂に鎮座する愛宕神社の鎮守の杜です。モチノキ、シイノキ、タブノキなどで形成されています。その中でもタブノキの大きく枝を広げた姿が神秘的です。

66 素鵞神社のケヤキ(小川)
【樹高】約35m【目通周囲】 約5.9m【樹齢】 約400年
市を代表するケヤキのひとつであり、幹がまっすぐに伸び、放射状に大きく枝を張る雄大な姿は、目を見張ります。

67 素鵞神社のケンポナシ(小川)
【樹高】 約25m【目通周囲】約3.7m【樹齢】150年
クロウメモドキ科ケンポナシ属の落葉高木。球状の果実をつけた果軸は、二日酔いや吐き気に効用があるとされています。文化元年( 1804)、現在の素鵞神社隣接地に医学修練所である稽医館が創設されました。かつて、茨城県指定記念物( 天然記念物) であったケンポナシは、本草学研究のために植樹されたとされています。しかし、昭和55年( 1980、枯死のため、伐採されてしまいました。素鵞神社のケンポナシは、稽医館にゆかりのある樹木であると思われます。








